長岡で発行している月刊フリーマガジン「マイスキップ」連載の同名コラムのブログ版です。主宰するアトリエの企画展情報をまじえながら…
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↑ はMySkip10月号、「長岡の水道タンク(配水塔)」特集である。
特集の担当は私なのだが、といっても自ら取材して記事を書いたわけではない。以前は担当になると自分で約3500字の原稿を書いていたが、最近は、より書ける人がいるときは原稿を依頼して編集の立場に徹するようにしている。今回の「配水塔」特集もまさにそうなのだが、執筆者の思い入れの強さが原稿にも滲みでてくるから、そのほうが俄然面白いものができるので。
なので紙面上には私の執筆跡はほとんどなく、リード4行で企画趣旨をまとめ、あとはせいぜい「沿革」を書いたくらいである。沿革は、配水塔が何年に建設されたとかの経緯を短くまとめたのものだが、とはいっても水道局発行のパンフレットを抜粋してそのまま書き写せばよいので、そう思えば至極簡単。さらにもっと簡単にやろうとするならば、ネット上のあちこちで「沿革」が書かれているのでそれをコピペしてくれば、それこそ一瞬で(何も考えなくても)作業が終わってしまう。
だが、こういったところには落とし穴が潜んでいるもので、ネット上の記述には間違いも平気であるとよく聞くけれど、今回もまさしくそうであった。
まず着工年。
大正3年着工と記しているサイトがけっこうあるのだが、本文(平山教授の書かれた原稿)には「大正9年には別の計画案(配水塔を作らない上水道敷設案)があった」とあるから、そこで大正3年に着工しているはずがないと気づいた次第。答えは簡単で、最初にネット上に書いた人が単に打ち間違えたよう。そこから先は全員コピペなのだろう。
また、配水塔の完成は昭和2年、とたいていのところで書かれているのだが、これも実をいうと違っている。かつては「昭和2年完成」と言われていたので、市の発行するパンフレットでもそのように書かれていたが、最新の研究では大正15年完成という立場に変わっている。近年になって見つかった古い資料で大正15年に通水式をやっていることが判明したとのことで、これは水道局のひとから聞いた話。パンフレットも(私の手元にあるのは古いもので、昭和2年完成となっていたが)、新しく発行するものはそのようにちゃんと直しているらしい。
ということで、ただ写せばよいだけかと思った「沿革」も、意外とそうではなかったという話。以前特集した「栃尾鉄道」のときも、試しにウィキペディアを見てみたら重要なところでの間違いがあったから、迂闊にコピペすると痛い目にあうというのは事実のようである。
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長岡市在住,アトリエZen主宰。
アート作家。同アトリエをベースにアートイベントの企画・コーディネートにたずさわっているほか、長岡で発行している地域情報誌「マイスキップ」の編集にも関わっています。
■連絡はこちら↓
mail:
correspon☆hotmail.co.jp
(☆を@に)
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